寅さん50周年のタイミングで「寅さんとイエス」を読んでみた

読書

寅さんの言葉

寅さんと言えば名言がたくさんありますが、私が最も印象に残っている言葉は
「男はつらいよ」第一作での

「お前と俺とは別な人間なんだぞ。早え話がだ、俺が芋食って、お前の尻からプッと屁が出るか!」

ともすれば、自分の考えと同じだろうと相手に行動を求めたり、他人と比較して落ち込んだり・・・私はわたし、あなたはあなた。別々の人間。それぞれの経験と時間の中で生きている。

さらりと、嫌味なく、そんなことを気が付かせてくれる寅さん。言葉のセンスが光ってます。

今年はその「男はつらいよ」第一作品公開(1969年8月)から50年になります。
ちょうど50年目を迎える8月。このタイミングで前々から気になっていた「寅さんとイエス」を読んでみました。

あの寅さんとイエス・キリスト(以下イエス)?思いも寄らない組み合わせですが、筆者の米田章男さんは大学で教鞭をとる神父であり、聖書を読み解くうちにイエスと寅さんの類似性を見つけたようです。

イエスは寅さんだった?!

私は聖書を読んだことがなく、イエスについての印象は堅実で正論を言う人というイメージしかないのですが、この本によると・・・

・聖書はイエスが残した文章ではなく、口頭で伝承された言葉と行動が残されたもので、
しかもイエスが亡くなってから数十年も経ってから出来上がったもの。
・イエスの発した言葉が憤ってなのか、悲しんでなのか、ユーモアとしてだったのか・・・
どんな感情のなかで出てきたのかは正確に知ることはできず、
『できるだけ尊敬に値するイエス像を描こうとしたことは疑う余地もない』
(笑いながらにこやかに語りかけけるイエスの印象がないのもうなずけます)

 

後世の意向が入っていることを考慮して当時の時代背景からイエスがとった言動を紐解くと、
①常識をはみ出した者、
②故郷を捨てたものとして、あの「フーテンの寅さん」のフーテン性が
垣間見えてくる・・・

聖書にイエスの笑いが表現されていませんが、
『人間は笑う。それならばイエスも当然笑うのである。』
『イエスは大いに笑った。人一倍快活であった。』

例えば聖書にはイエスについて「大飯食らいの大酒飲み、取税人や罪人(不浄の民)の仲間」
と記載もあるがこれは過小に書かれている可能性が高い。

 

社会で除け者とされていた取税人や罪人などと食事を共にすることは当時のユダヤ市民では
有り得ないことだったが、イエスはその逸脱行為を堂々とやってのけた。しかも楽しく陽気に。
イエスの身内の者も心配して、『イエスの上記を逸した行動を正気の沙汰ではないと、ある時イエスを「つかまえにやってきた」場面さえあった。』

 

この辺り読んでいると、「男はつらいよ」で毎回、寅さんが妹さくらに怒られている場面を思い出してしまいました。

人間性の回復

寅さん側から見ると、信州のバス停で出会ったおばあちゃんとのやり取りから。

「金はないよ、暇はあるけど。」と言いながらも、おばあちゃんが「泊まらねぇか?」と誘うと
「いや、俺、暇なように見えるだろう。だけど結構これでいろいろ忙しいんだ。ありがとう」
といって立ち去ろうとした一瞬、

『寅は老婆の眼差しの中に深い孤独を読み取る。そして二人はバスに乗り老婆の家に向かう。他者のまなざしの中に他者の必要を感じ取り、他者の必要を満たすべく、至れりつくせりの事を実行する』
その寅さんの行為はイエスが生涯かけて身を持って示した点と同じ、大事なのはそれ
(人間性の回復)だけだ、と。

 

この本は寅さんとイエスの言葉を「人間の色気」、「フーテン(風天)」、「つらさ」、
「ユーモア」と4つ切り口でを比較して書かれています。
『寅さんが歩く時、風の吹くまま気の向くまま、ユーモアの塊が歩いている。そのように、イエスが歩く時、優しさの塊が、ユーモアの塊が歩いていたに違いない。』

この本を読んでイエスの人間くさい姿を知ることができ、また寅さんのセリフから寅さんのとっても不器用だけど、人に対して深く優しい心遣いが伝わってきて改めて「男はつらいよ」を見直したくなりました。

おまけ

注釈にかかれていた山田監督とタクシー運転手のやりとりでのタクシー運転手の言葉

『色気があるね、あの映画には』『なんていうのかな、つまり・・・人間の色気ってことだよ』

「男はつらいよ」48作続いた魅力を表している一言だと思います。
50周年記念復刻「寅んく」が気になる今日このごろです。

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大安吉日
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